自己PRが苦手です。
「自己PRをお願いします」
この文を見るたびに、そして言われるたびに、私の中ではキタキタキター!! と、声にならないような声が上がる。
自己PR? 何それおいしいの、ととぼけたくなる衝動をぐっとこらえ、用意してあった言葉を並べる。
その言葉の薄っぺらさといったら、一反木綿もびっくりなほどである。ペラペラすぎて風に飛ばされるなんてもんじゃなく、向こう側が透けて見えてますよ、あぁ、シースルーですか、と言った具合にペラペラである。どんだけ薄いの、と自分の中でツッコミが入るくらいに。
段々その具合に、話しているこちらが妙な気分になってくる。えっ、これホント? いやいや嘘じゃない? という葛藤の末、こちらを見る面接官の視線が徐々に痛くなってくる。目を逸らしたくなる。
大体そうして、面接が終わったあとに「ああ、ダメだった……どうして私はこうなんだろう」と自己嫌悪に陥るのだ。もしも私が面接官なら、気の利いたことの1つも言えないどころか、まず目線が泳いでいる人は採用しようとは思わないだろう。
そもそも、なぜ自分をうまくアピールできないのか、というと。
それはひとえに、自分に自信がないからである。
私の自信のなさの構築は、遡ると小学生の頃からのように思う。
昔から性格が臆病で真面目なため、親の言うこと、そして同居していた祖父母の言うことには逆らわなかった。宿題をしてから遊びに行き、テレビは8時まで、それ以降は布団にさっさと入っていた。
次第に周りの友達が芸能人やテレビの話をし始めても、私にはさっぱりわからなかった。ジャニーズが、と言われればSMAPくらいはわかるけど、SMAPが出ているテレビは寝ている時間だから見られない。ドラマも、テレビを見ていい時間じゃないから見られない。どうしようもなく、かろうじて雑誌やTVガイドを見ていた。
そんなある日、友人が学校に雑誌の切り抜きを持ってきていた。「あ、木村くんだ。かっこいいよね」と声をかけたら、友人はチラリとこちらを見て「えっ、ゆかりちゃんがSMAPの名前なんて知ってたのー?」と意地悪く笑った。そうして、「ねえねえ、聞いて〜ゆかりちゃんがSMAP知ってたよ! 驚きなんだけど」と他の友達に笑って話した。
なんだかわからないけれど、その友達の姿を見たとき、ものすごくモヤモヤした。私だって、別にテレビを全く見ないわけじゃないし、勉強ばかりしてるわけじやない。
そのとき、それまでその友人に言われていた「真面目だよね」「頭いいよね」という言葉たちが、褒められていた意味合いを持っていなかったことに気がついた。もっと早く気付いても良さそうなものなのに、そこも馬鹿正直な私は今、言葉を額面通りに受け取っていた。
ああ、私、バカにされてるんだ。
その時に鈍い私でも、そうハッキリと気がついた。
そうして改めて周りを見てみると、小学生のうちから女子はグループがあって、そのグループにも優劣があった。「一番目立つグループ」はこの子たち、次はこの子、と言ったように。カーストは確実にクラスに存在し、それによる嫌がらせや悪口の言い合いなどもあった。
少しでも目立つ事をすると、悪口を言われる。視界の端で手紙を回されたり、ヒソヒソと声が聞こえる。先生に学力のことで褒められても、母が得意な手芸で凝ったカバンを作ってくれても。
こんなことをしたら、誰かに笑われる。何か言われる。
少しでもみんなと違うと、その批判は自分の耳にしっかり聞こえてきた。
そうして、私は自信をなくした。
何をやっても、人にあれこれ言われるのなら、最初からやらない。
私なんかがやろうとするのが間違いだったんだ。
私なんかが。
その言葉が胸の中に重くのしかかり、居座って離れなかった。
そのことに向かい合わないまま大人になり、何をやろうとしても「私なんか」と思っていることに気づいたのは、仕事を始めてからだった。
私なんかできません、とすぐ言うことがおかしい、と気づかせてくれたのは当時の同僚だった。
「それ、やめたら」
ある日突然言われた時には、何を言われてるのかさっぱりわからなかった。何が、と聞き返す前に「私なんか、って言うのだよ」と彼は言った。そんなことばっかり言ってると、「私」がどんどん価値がなくなるぞ、と。
言われた時は、そう言ってることについて怒られた、と軽くショックだった。けれど、ゆっくりとコーヒーに砂糖が溶けていくように、その言葉は私の中に染み込んできた。
そうか、私なんか、って思ってきたのは他の誰でもない、私なんだ。
長い、悪い夢から覚めたような気分だった。
そこには確かに、私のしていることを咎める声などなく、あるとすればそれは、私の心の中から聞こえている声だった。
「自己PRをお願いします」
今、そう言われたら私はなんと答えるだろうか。
答えるのに時間がかかるかもしれない。けれど、自分にはこんな長所があります、ということをきちんと伝えたい。
いつの日か、胸を張ってきちんと言える、そんな自分になれるといいなと、今は思う。
春は、嫌いだ。
春は、嫌いだ。
暖かくなり、段々草木が萌え始める。寂しかった冬の庭から、ひとつ、またひとつと色が増えて行く。
それは素晴らしいことで、外を見渡すと心が踊る。日も長くなり、外に出る楽しみが増える。
しかし、同時に出会いと別れの季節でもある。
基本的に変化を望まない、小心者でコミュニケーションが苦手な私としては、最も苦手な季節だ。新たな出会いに胸をときめかせるより、今、手の中にあるものが溢れてしまうことが怖い。人が入れ替わると、また一から信頼関係を築く楽しさがある一方、その不安定さに心が折れそうになる。
「繊細やねぇ〜」
「うるさい」
私が突っぱねたことはどうでも良さげに、あ、ネイルうまくできた、と妹は画面の向こうで上機嫌に鼻歌を歌っていた。妹は基本的に人見知りせず、知らない人の輪の中でもあっという間に溶け込めるタイプだった。どうやら、私はその特性を母のお腹の中に忘れてきたらしい。社交性という意味では、私は人より劣り、妹は人より優れていた。
「でもさ、変わってほしいこともあるやん。ああ、あの人嫌やなぁとか、違うことしたいなぁ、とか」
変わってほしいこと。
そう聞いて、真っ先に私の頭の中に浮かんだことがあった。
いつからだろうか。
あれ、なんだかおかしいな、そう気がついたのは。確か、中学生くらいだったような気がする。高校生になるころには、ハッキリと自覚があった。
毎年、大体モヤモヤとした気持ちになって気がつく。あれ、これはもしや。そう思うと、途端にぼうっとしてしまう。誰に何を話しかけられても反応が鈍くなり、もうそのことしか考えられなくなるのだ。もちろん、仕事にも支障が出る。ひどい時には自分の処理速度が半分くらいになるのを感じながら、なんとか「それ」が収まるのを待ち、ひたすらやり過ごすのだ。
ずっと、私は「それ」と縁を切りたいと思っていた。できればもう2度と、その感覚に陥りたくない。私は私の「いつも通り」を繰り返したいのだ。なんてったって、変化が嫌いなのだから。
しかし、「それ」は容赦なくやってきた。大体、突然に。一度「それ」になると、しばらくの間苦しめられる。
そして、「それ」とは切っても切れない腐れ縁になってしまうのであった。
「ハクション!!」
「何、風邪?」
相変わらず、ネイルを塗りながら妹が聞く。
「違う、いつものやつ」
おかげで私は、マスクとティッシュと薬が手放せなくなってしまった。なんと、調べてみたら私は他の人よりもアレルギー値が高いらしく、こりゃ大変だね、と医者に言われてしまったのだった。
「あー、花粉か。毎年、っていうか一年中ずっと何かしらなってない? ゆかりは」
そう、そして私は花粉の代表であるスギ以外にも、ブタクサ、イネ系の花粉、ハウスダストと厄介なものを色々抱えているのだった。
対して妹は全く平気そうだ。どうやら、悔しいことに私は母のお腹の中からそのあたりのアレルギー反応を全て持ってきてしまったらしい。
「変わってほしいことと言えば、これを治してほしいわ」
薬も慰め程度にしか効かない私にとって、春は憂鬱な季節でしかない。
「そのうち、きっと花粉を抑えられるいい薬が出るって」
なんの根拠もなくしれっと言う妹を画面越しに睨みつけるものの、妹は涼しい顔をしている。
ああ、これだから、春は嫌いだ。
そう呟くと、私はティッシュに手を伸ばした。
レモンを見ると思い出す、彼女のこと。
「ねえ、今から箱根に行こうよ」
突然、彼女はそう言い始めた。
時刻は深夜1時をまわろうとしている。こんな真夜中に、しかもなぜ箱根。別に吉本ばななの「キッチン」みたいに、カツ丼を食べているわけでもなければ、届ける相手がいるわけでもない。あれ、あの届け先はどこだったかな……?
突拍子がなさすぎて、思考が違う空間を彷徨いそうになるのを慌てて止め、尋ねる。
「……え? なんで?」
私がそう聞き返すと、彼女はうふふと笑い、ただ思いついただけで、特にどこに行きたいとかないんだよねー、とのんびり言った。そうして、お菓子に手を伸ばして、何事もなかったかのようにテレビを見始めた。
彼女……春乃とは、大学で知り合った。
学科が同じだけど、ほとんど話したことがなかった彼女と話すきっかけになったのは、バス停での出会いだった。
大学に入ってすぐ、車なんてなかった私の交通手段は自転車とバスだった。しかし、田舎の大学のため、バスは30分に1本という、随分とゆったりした間隔で運転していた。
冬が近づき、風がびゅうびゅうと吹いていた。出かけたくないな、と思ったものの、冷蔵庫は空だ。空腹には勝てず、仕方なくいつものように自転車で出かける。
すると、スーパーの前のバス停に人影が見えた。
見たことがあるその姿に、私はなんとはなしに近づいて行った。近くまで来た私に気づいた彼女はこっちを見た。
「……あれ、同じ学科だよね? バス待ち?」
私の問いかけに、彼女はそうなの、と応えた。聞くと、ちょうど出てしまったために30分待ちだという。風が強い中、彼女は薄着で寒そうに身を縮めていた。小柄な彼女がさらに小さく見え、
「じゃあバスが来るまで、うちに来る?」
と言ってしまったのは、私のささやかな気まぐれとしか言いようが無い。
そうして、私たちはそのまま数時間話した。大学のこと、地元のこと。きちんと話をしたのは初めてだったが、私たちはなかなかにウマが合ったのだった。
春乃は変わった子だった。
大体、突然電話をかけて来る。しかも深夜であろうが早朝であろうがお構いがない。
もしもし、と寝ぼけながら出ると、今バイトからの帰りなの〜、温泉に行かない? などとめちゃめちゃな提案をされる。そんな電話はしょっちゅうかかって来るのに、用事があってこちらから電話をするとほとんど出ない。
大学には来たり来なかったりで、数日連絡が取れない時もあった。グループでの課題があると、最終的には皆「春乃はじゃあ、もういいや」と途中からさじを投げる事が多かった。
そんな春乃に呆れる人は多かったが、なぜか彼女を面と向かって悪くいう人はあまりいなかった。皆、「春乃は全く……」と言いながら、ホントどうしようもないね、と言いながら、そんな春乃に付き合っていた。
彼女には不思議な人懐っこさがあった。困るとすぐに「ゆかりーーん」と頼ってくる。そして喜怒哀楽がはっきりしていて、それを次々と目の前で展開する。泣いたと思ったらすぐ笑い、「ゆかりんのおかげでなんとかなりそう、ありがとう」と帰って行く。
また、フットワークが軽く、こちらからの誘いは大体OKだった。それこそ、どこへでも。私は春乃が、友達の彼氏の実家がある愛知県まで行くのに同行したのを聞いた時にはさすがに驚いた。はいこれ、となごや嬢を渡された時には冗談だと思ったくらいだ。けれど彼女はニコニコしながら、「友達の彼氏の実家まで付いて行ったの」と言った。なんの気負いもなく、コンビニにいってきたの、というのと同じトーンで。一体どこまでが許容範囲なのだろう、と思うけれど、春乃に聞いてもふふ、と笑うだけなのだった。
そんな春乃は、男運がなかった。
春乃としては付き合っているつもりでも、相手からは遊びのつもりで手酷く振られたり、二番目三番目にされることが多かった。
その度に彼女は泣いたが、しかし、数日もすればまたケロリとしていたのだった。外観が可愛らしいためにモテたが、本人はそれに気づいていないようだった。
「春乃ねぇ、結婚するの」
目の前に運ばれてきたパスタに伸ばそうとした手を止め、彼女を見ると、いつものようにニコニコとした笑顔がそこにはあった。
私は、は、と言ったまま石のように動けなくなった。確か、春乃に最後に会ったのはひと月前。就職してからというもの、さすがに会う機会は減ったが、相変わらず春乃からの急な呼び出しは不定期に続いていた。
ひと月前は確か、結婚どころか付き合っている人もいなかったはずだ。どういうこと、と尋ねると、どうやら職場で紹介された人となんとなく付き合うことになり、そのまま付き合う=結婚の話が出ている、とのことだった。
あまりのスピードに私は開いた口が塞がらなかったが、春乃は楽しそうに彼の話や、彼とどんなデートをしたか、そしてすでに考えている結婚式の構想まで話し始めた。しばらくは唖然としていたものの、考えてみればこれが春乃だった、となんとなく納得してしまう自分がそこにはいた。
どちらかというとマイナス思考で、「春乃なんて……」が口癖だった彼女は、驚くぐらいプラス思考になっていた。
世の中には引き寄せの法則というものがあるけれど、彼女を見ていると本当にそういうものは存在するのかもしれない、と思えた。なぜなら、彼女は彼女自身がプラス思考になったことで、これまでうまくいかなかった(と本人は言っており、悩んでいた)ありとあらゆることが解消したからだった。「私は彼氏ができない、結婚もできないだろう」と春乃はずっと言っており、それが本人のコンプレックスになっていた。しかし、結婚が視野に入り、マジョリティの一員になったことで、コンプレックスが解消されて地に足がつき、物事を肯定的に捉えることができるようになったようだった。
一言で言えば「落ち着いた」のだ。
そんな彼女を見ていると、私は複雑な気持ちになった。よかったね、おめでとう、と笑って言った。確かにそれは本心だし、心から嬉しかったのだ。どこか落ち着かない春乃のことは、ずっと心配だったのだから、これでようやく心配事が1つ解消されて安心もしていた。
けれど、なんだかモヤモヤとしていた。そうしてそのまま私たちは別れ、家路についた。
暑いシャワーを浴び、考える。春乃とよく温泉に行ったなあ、そう思い出しながら。いつも、コンビニでお菓子を買ってから行ったっけ。春乃は干し梅とか、ドライフルーツなどの乾物が好きだった。いつもすっぱいものを好んで食べており、ドライフルーツだから食べているのかと思いきや、ある時生のレモンをかじっていたことがあって驚いたんだった。思い出してふふ、とつい笑ってしまう。
正直、春乃のことは友達として好きなのか嫌いなのか分からなくなる時があった。可愛らしく、天然で、悪気なく思ったことを言い、やりたいようにやる。そんな春乃は、いきなり連絡もつけずにバイトを辞めたり、課題に参加しないため、はじめこそみんな黙認していたが、大学生活の終わりにつれ、友人の間でもトラブルが多かった。その仲裁に入るのは骨が折れる作業で、さすがに私もうんざりしていた。
そんな私も約束をすっぽかされたこともあれば、変な噂を流されたこともある。けれど、なぜか放って置けなくてずっと連絡を取っていた。
そんな友人関係は、歪んでいる、そう思いながら。
結婚するのなら、彼が今度から全面的にそういった春乃のサポートに回るだろう。春乃も精神的に落ち着いたようだし、私はもう、そういったことをやらなくていいのだ。
その時にわかった。私は、自分が今までやってきた春乃のサポートをしなくてよくなったことに対して、安心すると同時に寂しかったのだ。もう、きっと夜中に電話が来ることは2度とない。2人でふらりと温泉に行くこともないだろう。
春乃との思い出は、楽しいことだってあった。それがぶつりと切られるようにして無くなることが、寂しかったのだ。
春乃との思い出が、ひとつ、またひとつと溢れては、泡となって流れていった。
私の予感は的中し、それから春乃からの連絡はぐんと減った。
そうしてそのうち、連絡がつかなくなった。学科の友人が、用があってメールをしても電話をしても応答がない、と困っていた。相変わらず自由にやっているらしい、とだけ、風の噂で聞いた。
春乃は今、何をしているのだろう。
また不安定になって、誰かに夜、電話をしていないだろうか。それだけが心配で、私はふと携帯を見つめてしまうのだった。
********************
花粉がすごくてなかなか書き進められずにいました。
書くペースを上げようかと思います。
ママ友なんか、別にいらない。
「遠くの身内より、近くのママ友」
とある巨大掲示板で目にした言葉に、私はふうん、そういうものなのか、と思った。
ママ友。一人目を産んですぐ、まだ家からほぼ出られない私からみれば都市伝説のようだった。試しに、明るくて美人な友人にママ友っているの? と聞くと、「ほとんどいない」との返事が返って来た。もっとも、その友人は大学時代の他の友人と同時期に出産しており、ほぼ休日はその2組の家族で過ごしてるとのことだったので、ママ友を作る機会がない、との事だった。
「大体、支援センターに行けばできるよ、ママ友」
そう話すのは妹の里香だった。妹が住む地域は、子どもの数が年々減少しているため、出産、育児に対して制度が手厚い。自分が住んでいる地域とのあまりの差に、結婚するときまたは住居を決めるときは自治体のホームページでそのあたりを確認するべきだった、と後悔したほどだ。
妹は週に4日ほど支援センターに行っていた。ほぼ毎日同じ人が来るらしいので、自然にみんなで連絡先を交換し、お互いの家を行き来してお茶したりするらしい。
「一回行ってみたら? 支援センター」
その言葉に背中を押されるように、私は市のホームページを見始めたのだった。
しかし、私の市の支援センターはイベントが多く、ほぼ予約制だった。0歳ねんね、はいはい、1歳など時間も決められており、「いつ行ってもいい」という場所ではなかった。
0歳の頃は火曜の午後だったのだが、午後1時がちょうど娘のお昼寝の時間にぶつかっていた。そのため、行っても泣く娘をひたすらおんぶして活動に参加しているばかりだった。それでも何度か会ううちにラインを交換して、「また他でも遊びましょう」という、いわゆる「ママ友」ができた。
はじめのうちは、お互いマメにラインをしていた。数回遊んだこともあった。
しかし、予防接種や娘の体調によって行けない日が続くと、断る方も断りにくく、誘った方は誘いづらくなった。
これが昔からの友達ならそうじゃなく、「じゃあまた!」で、実際ふらっと暇になった時に「明日、暇?」と聞けるのだが、まだ知り合ってから数回会った仲ではそうはいかない。お誘いの話は何日前からOKか、という感覚は個人差があるからだ。私は今日これから、でも平気なタイプだが、数予定を立てたり準備をしたりの都合上、数日前には言って欲しいというタイプももちろんいるだろう。
そのあたりの手探りが、これまた難しい。徐々に仲良くなっていくうちに「ああ、この人はこうなんだ」と見えてくる部分がある。それは、時間とともに見えるものなので急にはできない。少なくても、私にはそうだった。
そうしてそのうち、私は復職し、仕事と家事に追われた。はじめのうち、土日は平日できない家事をやることで手一杯で、友人と遊ぶ暇なんてなかった。
そうしているうちに、どちらからともなく連絡は途切れた。
そうして、私の支援センターでできたママ友との関係は終わった。
落ち着いた頃、支援センターでママ友は難しかったな、私はマメじゃないしな、と反省をした。連絡し続けていれば近くの友達が今でもいたかもしれないのにな。そう思ううちに日々は過ぎた。
しかし、子どもがいればママづきあいは続くのである。
娘が保育園に行くようになると、園の送り迎えで他のママさんと行き会うようになった。はじめはその程度だったが、徐々に接する機会が増えた。
基本的に対人が苦手で引っ込み思案な私は、どうにかこうにか笑顔を作ることでいっぱいいっぱいだった。身綺麗にしていて優しそうなママさん、しっかりしているママさん。みんなそれぞれ個性があるが、みんな自分よりもうんと素敵なママのように思え、気後れした。
温厚な人ほど、裏の顔があるんじゃないか。
ニコニコしながら心の中では何か思っていて、後で噂されるんじゃないか。
そんな風に被害妄想気味に思っては、心を開けないでいた。ただ笑顔の面を被り、合わせるだけのイエスマンになっている私の中には「私」が存在していなかった。
そんなある日、たまたま同じクラスのママとランチに行った。ランチの席で色々話すうち、そのうちに子どもたちは見ててもらって飲みに行こう、という話題で盛り上がった。
その時、そのママ……ユリちゃんは言った。
「じゃあ私と、お友達になってください」
私は面食らった。保育園でずっと会っていたし、私の中では既にユリちゃんは「ママ友」の枠の中に入っていた。
しかし、ユリちゃんはそうではなかったらしい。園で会って当たり障りない世間話をしている間柄では「友達」ではない、と思っていたようだった。
じゃあ、と私たちは敬語をやめ、苗字で呼んでいたところを「ユリちゃん」「ゆかりちゃん」と名前で呼び合うことにした。
友達って、宣言してなるものなんだろうか。そういう時は既に友達じゃないのかな?
そう思っていた私だが、そこで驚くことが起こった。
敬語をやめたからなのか、呼び方を変えたからなのか。私たちはお互いに急速に話しやすくなり、それから数時間の間、話し続けた。今まではなんとなく距離を置いていた私も、笑顔の面を外し、「私」のままで話せるようになったのだ。
そうして、気がついた。
「ママ友」と分類して、心を区切っていた自分がいたことに。
ママ友は友達とは別で、単なる「ママとしての人付き合い」の一環であり、子どもの成長とともに関わりを持ったり関わりが薄くなったりするものだ。知らず知らずのうち、そんな風に思い込んでいた。
それからは、私は「ママ友」という呼び方をやめることにした。
友達であれば「友達」でいいし、別に「ママ友」というジャンルを作る必要はないのだ。そう仕分けることで、そこに壁が生まれるのだから。
自分を縛り付けているのは自分の心で、それからはふっと肩の力を抜いて話せるようになったのだった。
これから、私はまだまだたくさんの人と出会うだろう。
その時に心の中で分類をせず、仲良くなった人を「友達」と呼べるようになりたいと思う。
たとえ、相手との距離感が違っても、またそれはその時に考え直せばいい。
大切なのは、私の気持ちだ。
保育園の前に、見知った人たちが集まって話していた。
私はゆっくりと息を吸って、声をかけた。
話すことを、忘れた話。
「でね、旦那がね、子どもの歯磨きができないの。暴れるからかわいそう、だって。しない方がよっぽどかわいそうだっての」
彼女の口からはポンポンと話題が飛び出してくる。そうだね、と私が相槌を打つか打たないかで「でね」と、次の言葉が出る。最早わたしの同調もあまり必要ないのかもしれない、と思いながら、うんうん、と頷く。そういえば、こうやってうんうん頷いてくれるおもちゃが雑貨屋で売ってたな、なんて名前だったっけ、などと頭の片隅で考える。ああ、思い出せない。記憶力の劣化ほど悲しいことは無い。まあ、それは大筋とは全く関係してないのだけど。
彼女は育児休暇中で、二人の子どもの面倒を見ながら過ごしていた。旦那さんは帰りが遅く、実家は双方ともに遠いので、助けてくれる手はない。
話を聞いていると、あれ、と気がつく。
さっきと同じ内容をループしていた。本人は気づいている様子はない。けれど、私はその話の顛末を知っている。よほど話したかったんだろう、と、特に突っ込みを入れず、そのまま話を聞いた。
そうして、私はふとある事を思い出したのだった。
ピンポーン。
チャイムの音が響くと、うとうとしていた息子がはっと目を覚ました。時間なので仕方ない。片手で息子を抱えながら、玄関へと向かう。
「こんにちはー! 久しぶりだね」
ドアを開けると、そこには職場の同僚たちがいた。育児休暇中だった私の家へ、子どもを見に尋ねて来てくれたのだった。
「どうぞどうぞ、上がってください。子どもの物が散乱してますけれど」
私はドアを大きく開け、彼女たちを招き入れた。
「それにしても、久しぶりだね。産まれた時に会って以来だから、何ヶ月ぶりだろう? 大きくなったねー」
そうですね、と相槌を打つ。ひとしきり子どもの話題が終わると、同僚たちは会社の話題をし始めた。あの人、結婚したんだよ。でね、あの人が異動して支店に行って……。
私はすっかり浦島太郎のような状態だった。休みに入ってから1年経っていない。それでも、人が集まるところはどんどん変化していく。一人、そこに置いていかれたような気持ちだった。
焦った私は、何か会話をしようと思った。そういえばあの人はどうしたんですか、とか、最近の部の様子はどうですか、とか。
何か、何か話して参加しなきゃ。その焦りからなのか、言葉はなかなか出なかった。ああ、今こう話して話に入って行けばよかったのに。同僚たちの話を聞きながら、話に参加しているようで参加していないようだった私は、もぞもぞと足の先を動かしていた。いつ話し出すかのタイミングを見計らおうとしても、うまくいかず、ひたすらモジモジしているだけだった。
「ゆかりちゃんはどう?」一人の同僚に話を振られ、私はようやく話すきっかけを得ることができた。やった、と思って話し出す。
「えっと、あの、そうですね、多分また時短勤務で戻ると思うんですけれど、その」
あれ、と思った時には遅かった。言葉はつっかえ、伝えたいことがうまく話せない。そのくせ、一度話し始めると、とめどなく話してしまう。もうやめようと思っても、話のやめどきがわからない。しかも、言いたい事は言えていないように思えて、長く話してしまったのだった。
ああ、やってしまった。同僚たちに申し訳ない気分になり、居ても立っても居られなくなった私はお茶を入れてきます、と席を立ったのだった。
目の前でなおも話し続ける友人を見て、私は既視感に軽い目眩を覚えた。
そうだ、彼女はあの時の私に似ているのだ。
何事も慣れはある。普段、子どもと二人でいる彼女は、旦那さんが激務な彼女は、私と同じ、日常的に話す人が少ないのではないだろうか。大人を相手に話していないと、「大人同士での会話」を忘れるのだ。天気がどうとかの当たり障りない話や、社交辞令といったようなものもそこには含まれていて、それはもしかしたら、なくてもいいものなのかもしれないけれど。
どちらが良いとか、悪いとかという事ではない。ただ、そんなことすら忘れてしまうほど、それだけ必死になって毎日毎日子どもたちと過ごす彼女は、偉いと思った。
いつも、おつかれさま。
そんな気持ちで、まだまだ続く彼女の話をうん、うんと聞いた。私には、聞くことしかできなかったから。
後ろではいつの間にか、子どもたちが揃って寝息を立てていた。その安らかな寝顔に、私はそっと、カーステレオを切った。
9の次に来る数字が覚えられなくて苦しんだ日々。
「じゃあ、まずはエクセルを開いて。そう、そのファイル」
言われるがままにエクセルのファイルを開くと、そこにはシンプルな日付をセレクトするボックスと、「展開」と書かれたボタンがあった。
ボタンを押してみて、と言われておそるおそるクリックする。すると、その他のシートにデータがだだっと入力され、別のファイルに展開した。
一体何が起こったんだ、と私はぼうっとその様子を見ていた。私の様子を見て、同僚は「VBAは使ったことない……よね、一応このマクロの手直しを最初にしてもらおうかなって思うんだけど」と苦笑いしながら言った。
VBA? マクロ?
私の頭の中は? でいっぱいになった。
フリーズしている私をよそに、説明はどんどん進む。私は慌てて、メモを取り始めたのだった。
生まれてこのかた、自分は文系だな、とずっと思ってきた。
数学は嫌いだし、化学も嫌い。なんなら数字を見ると気持ち悪くなってくるし、計算の何が楽しいのかさっぱりわからない。
よく、問題が解けた時に爽快感がある、と友人は言っていたが、私はそういう感覚になったことがほぼなかった。
対して、国語は好きだった。他の何の教科ができなくても、国語だけはやる気があった。物語を読むのは好きだったし、暇さえあれば本を読んでいた時期もあった。
だから、進路を決める時も、迷いはなかった。文系へ、そして関連の大学へ。それは私にとって、自然な流れだった。
「そっか、文系の出なんだっけ。それじゃ難しいよね。まず、慣れることかなぁ」
うーん、と腕組みをし、私の教育担当者となった同僚は言った。
入社し、配属されてすぐの私の部署は情報系だった。パソコンは使えるつもりでいたけれど、エクセルよりワード、プログラミングよりインターネット、といった私は、ほぼ全く使えない状況と同じだった。
「データは16進で入ってくるんだけど、わかる? 16進。」
16進……私ははるか昔の記憶を絞り出して、わかります、なんとか、と答えた。
「9の次がA、B…ってなって、16が10なのね。だからここで変換して……」
Aってアルファベットじゃないんですか、という言葉をぐっと飲み込む。16進なんて、高校以来だ。習った時はへえ、そんなのあるんだといった具合だったのに、まさかこんなところで再び出会うとは。
「で、ここで変数が……」
「すみません、変数ってなんですか。この、変数の宣言っていうのもなんですか」
ど素人丸出しの質問にも、同僚は嫌な顔をせずに答えてくれた。
しかし、その後に聞こえてきた言葉はその頃の私にとっては宇宙語のようだった。integerは32767までで、それより大きい数字になる場合はlong。数字以外のものが入る場合はvariant。まあ、詳しくはネットででも調べてみて。そう言われても、中身を理解できないまま「はあ」と答えるのが精一杯だった。メモには「ネットで調べる」とだけ書いておいたのだった。
プシュッ、という小気味好い音が部屋に響く。
何が何だかわからないまま、終業時間になり帰宅した私は、思わずビールを開けていた。
仕事終わりのビール、とよく父が飲んでいたのも頷ける。終わった、という開放感から、さらに酩酊して少し現実から遠くに行きたかった。
一気に半分ほど中身を煽る。炭酸がはじけ、キリリとした苦味が後に残る。
ベッドに頭をもたれて天井をぼうっと見上げる。すると、32767、A、ロング、などと今日習ったことがぐるぐると回って、浮かんでは消え、また浮かんでは消えと繰り返した。これでは休めるものも休めない。
ため息をついて、再びビールに手を伸ばす。すると、ふと何かが頭をよぎった。
前にもこんなこと、あったような。
インテジャー、ロング、そして数字。それらを、確かに私はどこかで聞いたことがある。初めて聞くその単語は私の中で全く意味をなさず、なんだそれ、と理解せずに終わった事があったはずだ。その時も、しばらく同じようにぐるぐると単語が頭の中を回っていた。
一体、どこでだっただろう。
一口、二口ビールを飲む。
途端、思い出した。慌てて本棚に向かうと、すぐ取り出せるところにその本はあった。
もう、何年も前だから忘れていた。そう、あの時も同じように戸惑ったのだ。
今なら、もう少しマシに理解が進むかもしれない。9の次はA、それを実感した私なら、きっと。
私はその本を開き、夢中で読み始めた。
*************
「すべてがFになる」
森博嗣 著 を読んで
子どもが砂を食べても、笑っていられるお母さんに私はなりたい。
「ねえ、砂場で子どもが砂を食べていても、止めないで笑ってられる?」
え、どういうこと、と私は友人の顔を見返した。
冗談なのかな、と思ったが、彼女は至って真面目だった。子どもをあやしながらじっとこっちを見て、私の返事を待っている。
うーん、砂場か。そして砂か。外のものだし、砂はなかなか洗濯するにも強敵だし、家も洗濯機も砂だらけになるのは嫌だなぁ。というより、衛生上どうなんだろう、それ。でも、子どもの知的好奇心を満たすためってなると許容範囲なのだろうか……いや、けど。
そんな風に、一瞬の間に肯定と否定の意見が頭の中を駆け巡る。
「うーん……さすがに、ちょっと止めるかもね、遊んでるのはいいことなんだけど」
やんわりと「中間」の答えになるように言葉を用意する。話の先がどちらに出るかわからない場合、私はそうしている。ママ友の意見を否定したくないからだった。
「やっぱりそうだよね、私もそう。砂は食べ物じゃないよ、って止めると思う。
でもね……」
と、彼女は数日前のことを話し始めたのだった。
カナコちゃんは私と彼女の共通のママ友だった。
そのカナコちゃんと、彼女が数日前に遊んでいた時のこと。
カナコちゃんの子どもが、砂場で遊んでいて、そのまま砂を食べ始めた。しかも少量ではなく、ばくっと食べていた。
「えっ、砂、食べちゃってるよ!? 大丈夫?」
と慌てる彼女に、カナコちゃんは
「砂なら死ぬことはないから、平気だよー。少し食べてれば、美味しくないって気がつくと思うし」
とのんびりと答え、砂を食べてる子どもを咎めることなくそのまま好きにさせていたのだった。
「うちのお母さんがね、そういう人だったんだ。なんでもやってみて学びなさい、って。余程危ないこととか、命に関わること以外は止めなかったんだ。
だから私も、子どもには興味があるままにやらせてあげたいなって思って」
と、カナコちゃんは笑った。
「……そんなことがあって、カナコちゃんてすごいなって。食べ物じゃないよ、って親が先回りして止めるのは簡単だけど、やりたいだけやらせてあげて見守る方がうんと難しいなって。
それで、他のみんなはどうしてるのかなって思ってね、聞いてみたんだ」
私はぐっと言葉が詰まる思いだった。
私も、かつてはそう思っていた。実際に、自分の子どもが産まれるまでは。
好きなようにやらせてあげて、本当に危ないことだけ注意する。その他はそっと見守って、やりたいようにやらせてあげる。そんな、のびのびとした子育てをしたいな、なんて思っていた。そしてそれが、自分にはできると思っていた。
けれど、現実は違った。
毎日分単位で時間に追われ、少しでも一休み、なんてしようものなら遅刻する。遅刻した場合のペナルティーは会社も保育園もすごく単純で、お金の負担となってのしかかってくる。
そんな中、あれがやりたいこれがやりたいと言われることに付き合う事もできず、「ちょっとごめんね」「時間がないからまた、今度お休みの日ね」と先延ばしにしてしまう。
そうして、休みの日には普段できない掃除や買い出しで、なかなか子どもたちと向き合う時間が取れなかった。「今やりたい」とぐずる子どもに対し、こっちは忙しいのに、とイライラして怒ってしまうこともある。
「それでいいの?」
そのカナコちゃんの話は、私にそう問いかけているようだった。
「それで、あなたは後悔しないの?」
いろんな気持ちが私の中で渦巻いた。私だって仕事が別にしたい訳じゃない、辞めたくても辞められない、子どもとだって遊びたくても親が近くにいて手助けしてくれるわけじゃない……。
ぐるぐるした思いのまま、私は友人と別れた。またねー、と言った私の顔には、笑顔が浮かんでいただろうか。そんなことを考えながら、帰路に着いた。
「おかーさーん」
家に着くと、さっそく娘が私を呼ぶ声がする。今度はなんだろう、と思うと、人形の服が脱げない、ということだった。ハイハイ、と洗い物の手を止めて、メルちゃんの絡まった髪をほぐし、背中のマジックテープを剥がす。
「ありがとう」
そう言って、娘はメルちゃんにまた服を着せ始めた。
後悔は、するかもしれない。きっと、何を選んでも、選ばなかった方を少しだけ夢見ては「あの時ああすれば……」と考えるときはあるだろう。
けれど、自分で選んだ道なのだから、精一杯やりたいようにやろう。
仕事をしていると、確かに遊べる時間は短くなる。けれど、その短い時間でも子どもと思いっきり遊べたら。のびのびと触れ合えたら。
そう、わたしが思っている「のびのびとした育児」は、決して短時間だからできない、というものではないはずだ。
できないことは確かにあるかもしれない。けれど、全くできないわけじゃないはずだ。
カナコちゃんにはなれなくても、私の思い描く育児に近づける方法は、きっとある。まだわからず、手探りだけど、私は私なりに探していけばいいのだ。
「おかーさん、メルちゃん寝てるから、わたしが抱っこしてるの」
メルちゃんが紐でぐるぐる巻きになり、逆さ吊りのようになっているのを見て、思わず「違うよ」と言いたくなるのを、ぐっとこらえる。娘なりに考え、頑張った結果なのだから、止めずに受け止めようと。
いつかは、私も子どもが砂を食べていても「丈夫になるね」と、笑えるだろうか。まだまだ、やめなさい! と言ってしまいそうな私は、山ほどの修行が必要そうだけれど。
道のりの遠さにため息が出そうになるのをぐっと堪えて、娘を褒めて抱きしめると、太陽の匂いがした。
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「書かないと、書く力は落ちます」
そう言われたので、なんとはなしに書こうと思います。もったいないので。
基本、月曜または火曜には最低週1で更新です。
(寄稿してたときには週2書いてたはずなのに…人が読んでる! という緊張感ってすごいですね)
よろしくお願いいたします。