9の次に来る数字が覚えられなくて苦しんだ日々。
「じゃあ、まずはエクセルを開いて。そう、そのファイル」
言われるがままにエクセルのファイルを開くと、そこにはシンプルな日付をセレクトするボックスと、「展開」と書かれたボタンがあった。
ボタンを押してみて、と言われておそるおそるクリックする。すると、その他のシートにデータがだだっと入力され、別のファイルに展開した。
一体何が起こったんだ、と私はぼうっとその様子を見ていた。私の様子を見て、同僚は「VBAは使ったことない……よね、一応このマクロの手直しを最初にしてもらおうかなって思うんだけど」と苦笑いしながら言った。
VBA? マクロ?
私の頭の中は? でいっぱいになった。
フリーズしている私をよそに、説明はどんどん進む。私は慌てて、メモを取り始めたのだった。
生まれてこのかた、自分は文系だな、とずっと思ってきた。
数学は嫌いだし、化学も嫌い。なんなら数字を見ると気持ち悪くなってくるし、計算の何が楽しいのかさっぱりわからない。
よく、問題が解けた時に爽快感がある、と友人は言っていたが、私はそういう感覚になったことがほぼなかった。
対して、国語は好きだった。他の何の教科ができなくても、国語だけはやる気があった。物語を読むのは好きだったし、暇さえあれば本を読んでいた時期もあった。
だから、進路を決める時も、迷いはなかった。文系へ、そして関連の大学へ。それは私にとって、自然な流れだった。
「そっか、文系の出なんだっけ。それじゃ難しいよね。まず、慣れることかなぁ」
うーん、と腕組みをし、私の教育担当者となった同僚は言った。
入社し、配属されてすぐの私の部署は情報系だった。パソコンは使えるつもりでいたけれど、エクセルよりワード、プログラミングよりインターネット、といった私は、ほぼ全く使えない状況と同じだった。
「データは16進で入ってくるんだけど、わかる? 16進。」
16進……私ははるか昔の記憶を絞り出して、わかります、なんとか、と答えた。
「9の次がA、B…ってなって、16が10なのね。だからここで変換して……」
Aってアルファベットじゃないんですか、という言葉をぐっと飲み込む。16進なんて、高校以来だ。習った時はへえ、そんなのあるんだといった具合だったのに、まさかこんなところで再び出会うとは。
「で、ここで変数が……」
「すみません、変数ってなんですか。この、変数の宣言っていうのもなんですか」
ど素人丸出しの質問にも、同僚は嫌な顔をせずに答えてくれた。
しかし、その後に聞こえてきた言葉はその頃の私にとっては宇宙語のようだった。integerは32767までで、それより大きい数字になる場合はlong。数字以外のものが入る場合はvariant。まあ、詳しくはネットででも調べてみて。そう言われても、中身を理解できないまま「はあ」と答えるのが精一杯だった。メモには「ネットで調べる」とだけ書いておいたのだった。
プシュッ、という小気味好い音が部屋に響く。
何が何だかわからないまま、終業時間になり帰宅した私は、思わずビールを開けていた。
仕事終わりのビール、とよく父が飲んでいたのも頷ける。終わった、という開放感から、さらに酩酊して少し現実から遠くに行きたかった。
一気に半分ほど中身を煽る。炭酸がはじけ、キリリとした苦味が後に残る。
ベッドに頭をもたれて天井をぼうっと見上げる。すると、32767、A、ロング、などと今日習ったことがぐるぐると回って、浮かんでは消え、また浮かんでは消えと繰り返した。これでは休めるものも休めない。
ため息をついて、再びビールに手を伸ばす。すると、ふと何かが頭をよぎった。
前にもこんなこと、あったような。
インテジャー、ロング、そして数字。それらを、確かに私はどこかで聞いたことがある。初めて聞くその単語は私の中で全く意味をなさず、なんだそれ、と理解せずに終わった事があったはずだ。その時も、しばらく同じようにぐるぐると単語が頭の中を回っていた。
一体、どこでだっただろう。
一口、二口ビールを飲む。
途端、思い出した。慌てて本棚に向かうと、すぐ取り出せるところにその本はあった。
もう、何年も前だから忘れていた。そう、あの時も同じように戸惑ったのだ。
今なら、もう少しマシに理解が進むかもしれない。9の次はA、それを実感した私なら、きっと。
私はその本を開き、夢中で読み始めた。
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「すべてがFになる」
森博嗣 著 を読んで