日常メモランダム

日々の雑感です。

話すことを、忘れた話。

「でね、旦那がね、子どもの歯磨きができないの。暴れるからかわいそう、だって。しない方がよっぽどかわいそうだっての」

 彼女の口からはポンポンと話題が飛び出してくる。そうだね、と私が相槌を打つか打たないかで「でね」と、次の言葉が出る。最早わたしの同調もあまり必要ないのかもしれない、と思いながら、うんうん、と頷く。そういえば、こうやってうんうん頷いてくれるおもちゃが雑貨屋で売ってたな、なんて名前だったっけ、などと頭の片隅で考える。ああ、思い出せない。記憶力の劣化ほど悲しいことは無い。まあ、それは大筋とは全く関係してないのだけど。

彼女は育児休暇中で、二人の子どもの面倒を見ながら過ごしていた。旦那さんは帰りが遅く、実家は双方ともに遠いので、助けてくれる手はない。

話を聞いていると、あれ、と気がつく。

さっきと同じ内容をループしていた。本人は気づいている様子はない。けれど、私はその話の顛末を知っている。よほど話したかったんだろう、と、特に突っ込みを入れず、そのまま話を聞いた。

そうして、私はふとある事を思い出したのだった。

 

ピンポーン。

チャイムの音が響くと、うとうとしていた息子がはっと目を覚ました。時間なので仕方ない。片手で息子を抱えながら、玄関へと向かう。

「こんにちはー! 久しぶりだね」

ドアを開けると、そこには職場の同僚たちがいた。育児休暇中だった私の家へ、子どもを見に尋ねて来てくれたのだった。

「どうぞどうぞ、上がってください。子どもの物が散乱してますけれど」

私はドアを大きく開け、彼女たちを招き入れた。

「それにしても、久しぶりだね。産まれた時に会って以来だから、何ヶ月ぶりだろう? 大きくなったねー」

そうですね、と相槌を打つ。ひとしきり子どもの話題が終わると、同僚たちは会社の話題をし始めた。あの人、結婚したんだよ。でね、あの人が異動して支店に行って……。

私はすっかり浦島太郎のような状態だった。休みに入ってから1年経っていない。それでも、人が集まるところはどんどん変化していく。一人、そこに置いていかれたような気持ちだった。

焦った私は、何か会話をしようと思った。そういえばあの人はどうしたんですか、とか、最近の部の様子はどうですか、とか。

何か、何か話して参加しなきゃ。その焦りからなのか、言葉はなかなか出なかった。ああ、今こう話して話に入って行けばよかったのに。同僚たちの話を聞きながら、話に参加しているようで参加していないようだった私は、もぞもぞと足の先を動かしていた。いつ話し出すかのタイミングを見計らおうとしても、うまくいかず、ひたすらモジモジしているだけだった。

「ゆかりちゃんはどう?」一人の同僚に話を振られ、私はようやく話すきっかけを得ることができた。やった、と思って話し出す。

「えっと、あの、そうですね、多分また時短勤務で戻ると思うんですけれど、その」

あれ、と思った時には遅かった。言葉はつっかえ、伝えたいことがうまく話せない。そのくせ、一度話し始めると、とめどなく話してしまう。もうやめようと思っても、話のやめどきがわからない。しかも、言いたい事は言えていないように思えて、長く話してしまったのだった。

ああ、やってしまった。同僚たちに申し訳ない気分になり、居ても立っても居られなくなった私はお茶を入れてきます、と席を立ったのだった。

 

目の前でなおも話し続ける友人を見て、私は既視感に軽い目眩を覚えた。

そうだ、彼女はあの時の私に似ているのだ。

何事も慣れはある。普段、子どもと二人でいる彼女は、旦那さんが激務な彼女は、私と同じ、日常的に話す人が少ないのではないだろうか。大人を相手に話していないと、「大人同士での会話」を忘れるのだ。天気がどうとかの当たり障りない話や、社交辞令といったようなものもそこには含まれていて、それはもしかしたら、なくてもいいものなのかもしれないけれど。

どちらが良いとか、悪いとかという事ではない。ただ、そんなことすら忘れてしまうほど、それだけ必死になって毎日毎日子どもたちと過ごす彼女は、偉いと思った。

いつも、おつかれさま。

そんな気持ちで、まだまだ続く彼女の話をうん、うんと聞いた。私には、聞くことしかできなかったから。

後ろではいつの間にか、子どもたちが揃って寝息を立てていた。その安らかな寝顔に、私はそっと、カーステレオを切った。