レモンを見ると思い出す、彼女のこと。
「ねえ、今から箱根に行こうよ」
突然、彼女はそう言い始めた。
時刻は深夜1時をまわろうとしている。こんな真夜中に、しかもなぜ箱根。別に吉本ばななの「キッチン」みたいに、カツ丼を食べているわけでもなければ、届ける相手がいるわけでもない。あれ、あの届け先はどこだったかな……?
突拍子がなさすぎて、思考が違う空間を彷徨いそうになるのを慌てて止め、尋ねる。
「……え? なんで?」
私がそう聞き返すと、彼女はうふふと笑い、ただ思いついただけで、特にどこに行きたいとかないんだよねー、とのんびり言った。そうして、お菓子に手を伸ばして、何事もなかったかのようにテレビを見始めた。
彼女……春乃とは、大学で知り合った。
学科が同じだけど、ほとんど話したことがなかった彼女と話すきっかけになったのは、バス停での出会いだった。
大学に入ってすぐ、車なんてなかった私の交通手段は自転車とバスだった。しかし、田舎の大学のため、バスは30分に1本という、随分とゆったりした間隔で運転していた。
冬が近づき、風がびゅうびゅうと吹いていた。出かけたくないな、と思ったものの、冷蔵庫は空だ。空腹には勝てず、仕方なくいつものように自転車で出かける。
すると、スーパーの前のバス停に人影が見えた。
見たことがあるその姿に、私はなんとはなしに近づいて行った。近くまで来た私に気づいた彼女はこっちを見た。
「……あれ、同じ学科だよね? バス待ち?」
私の問いかけに、彼女はそうなの、と応えた。聞くと、ちょうど出てしまったために30分待ちだという。風が強い中、彼女は薄着で寒そうに身を縮めていた。小柄な彼女がさらに小さく見え、
「じゃあバスが来るまで、うちに来る?」
と言ってしまったのは、私のささやかな気まぐれとしか言いようが無い。
そうして、私たちはそのまま数時間話した。大学のこと、地元のこと。きちんと話をしたのは初めてだったが、私たちはなかなかにウマが合ったのだった。
春乃は変わった子だった。
大体、突然電話をかけて来る。しかも深夜であろうが早朝であろうがお構いがない。
もしもし、と寝ぼけながら出ると、今バイトからの帰りなの〜、温泉に行かない? などとめちゃめちゃな提案をされる。そんな電話はしょっちゅうかかって来るのに、用事があってこちらから電話をするとほとんど出ない。
大学には来たり来なかったりで、数日連絡が取れない時もあった。グループでの課題があると、最終的には皆「春乃はじゃあ、もういいや」と途中からさじを投げる事が多かった。
そんな春乃に呆れる人は多かったが、なぜか彼女を面と向かって悪くいう人はあまりいなかった。皆、「春乃は全く……」と言いながら、ホントどうしようもないね、と言いながら、そんな春乃に付き合っていた。
彼女には不思議な人懐っこさがあった。困るとすぐに「ゆかりーーん」と頼ってくる。そして喜怒哀楽がはっきりしていて、それを次々と目の前で展開する。泣いたと思ったらすぐ笑い、「ゆかりんのおかげでなんとかなりそう、ありがとう」と帰って行く。
また、フットワークが軽く、こちらからの誘いは大体OKだった。それこそ、どこへでも。私は春乃が、友達の彼氏の実家がある愛知県まで行くのに同行したのを聞いた時にはさすがに驚いた。はいこれ、となごや嬢を渡された時には冗談だと思ったくらいだ。けれど彼女はニコニコしながら、「友達の彼氏の実家まで付いて行ったの」と言った。なんの気負いもなく、コンビニにいってきたの、というのと同じトーンで。一体どこまでが許容範囲なのだろう、と思うけれど、春乃に聞いてもふふ、と笑うだけなのだった。
そんな春乃は、男運がなかった。
春乃としては付き合っているつもりでも、相手からは遊びのつもりで手酷く振られたり、二番目三番目にされることが多かった。
その度に彼女は泣いたが、しかし、数日もすればまたケロリとしていたのだった。外観が可愛らしいためにモテたが、本人はそれに気づいていないようだった。
「春乃ねぇ、結婚するの」
目の前に運ばれてきたパスタに伸ばそうとした手を止め、彼女を見ると、いつものようにニコニコとした笑顔がそこにはあった。
私は、は、と言ったまま石のように動けなくなった。確か、春乃に最後に会ったのはひと月前。就職してからというもの、さすがに会う機会は減ったが、相変わらず春乃からの急な呼び出しは不定期に続いていた。
ひと月前は確か、結婚どころか付き合っている人もいなかったはずだ。どういうこと、と尋ねると、どうやら職場で紹介された人となんとなく付き合うことになり、そのまま付き合う=結婚の話が出ている、とのことだった。
あまりのスピードに私は開いた口が塞がらなかったが、春乃は楽しそうに彼の話や、彼とどんなデートをしたか、そしてすでに考えている結婚式の構想まで話し始めた。しばらくは唖然としていたものの、考えてみればこれが春乃だった、となんとなく納得してしまう自分がそこにはいた。
どちらかというとマイナス思考で、「春乃なんて……」が口癖だった彼女は、驚くぐらいプラス思考になっていた。
世の中には引き寄せの法則というものがあるけれど、彼女を見ていると本当にそういうものは存在するのかもしれない、と思えた。なぜなら、彼女は彼女自身がプラス思考になったことで、これまでうまくいかなかった(と本人は言っており、悩んでいた)ありとあらゆることが解消したからだった。「私は彼氏ができない、結婚もできないだろう」と春乃はずっと言っており、それが本人のコンプレックスになっていた。しかし、結婚が視野に入り、マジョリティの一員になったことで、コンプレックスが解消されて地に足がつき、物事を肯定的に捉えることができるようになったようだった。
一言で言えば「落ち着いた」のだ。
そんな彼女を見ていると、私は複雑な気持ちになった。よかったね、おめでとう、と笑って言った。確かにそれは本心だし、心から嬉しかったのだ。どこか落ち着かない春乃のことは、ずっと心配だったのだから、これでようやく心配事が1つ解消されて安心もしていた。
けれど、なんだかモヤモヤとしていた。そうしてそのまま私たちは別れ、家路についた。
暑いシャワーを浴び、考える。春乃とよく温泉に行ったなあ、そう思い出しながら。いつも、コンビニでお菓子を買ってから行ったっけ。春乃は干し梅とか、ドライフルーツなどの乾物が好きだった。いつもすっぱいものを好んで食べており、ドライフルーツだから食べているのかと思いきや、ある時生のレモンをかじっていたことがあって驚いたんだった。思い出してふふ、とつい笑ってしまう。
正直、春乃のことは友達として好きなのか嫌いなのか分からなくなる時があった。可愛らしく、天然で、悪気なく思ったことを言い、やりたいようにやる。そんな春乃は、いきなり連絡もつけずにバイトを辞めたり、課題に参加しないため、はじめこそみんな黙認していたが、大学生活の終わりにつれ、友人の間でもトラブルが多かった。その仲裁に入るのは骨が折れる作業で、さすがに私もうんざりしていた。
そんな私も約束をすっぽかされたこともあれば、変な噂を流されたこともある。けれど、なぜか放って置けなくてずっと連絡を取っていた。
そんな友人関係は、歪んでいる、そう思いながら。
結婚するのなら、彼が今度から全面的にそういった春乃のサポートに回るだろう。春乃も精神的に落ち着いたようだし、私はもう、そういったことをやらなくていいのだ。
その時にわかった。私は、自分が今までやってきた春乃のサポートをしなくてよくなったことに対して、安心すると同時に寂しかったのだ。もう、きっと夜中に電話が来ることは2度とない。2人でふらりと温泉に行くこともないだろう。
春乃との思い出は、楽しいことだってあった。それがぶつりと切られるようにして無くなることが、寂しかったのだ。
春乃との思い出が、ひとつ、またひとつと溢れては、泡となって流れていった。
私の予感は的中し、それから春乃からの連絡はぐんと減った。
そうしてそのうち、連絡がつかなくなった。学科の友人が、用があってメールをしても電話をしても応答がない、と困っていた。相変わらず自由にやっているらしい、とだけ、風の噂で聞いた。
春乃は今、何をしているのだろう。
また不安定になって、誰かに夜、電話をしていないだろうか。それだけが心配で、私はふと携帯を見つめてしまうのだった。
********************
花粉がすごくてなかなか書き進められずにいました。
書くペースを上げようかと思います。